10.24.2012

ネパール




*借金を返した後

風砂子:
ネパールで農業指導していた…やっぱりネパールにも(日本人が)ふた家族ぐらいで…
まだその頃は…その人がイサムとどこかで出会って、わたしが行く前にね。
その人がわたしたちに、ネパールの工芸指導所っていう所で仕事を見つけてくれたの。
わたしはもうほんとに、ニセ師匠から解放されてうれしくてさぁ。(笑)

それでカトマンズへ。
そこの仕事っていうのが面白くてね。
工芸指導所っていうんだけどね、政府のね。
朝10時から午後4時までの仕事で、お昼になるとお茶をやる小さな場所があって
みんなそこに集まっておしゃべりしてね、仕事なんてなんだって感じよ。

ネパールで(当時)すごく素晴らしい手透きの紙を作っていたわけ。
今も作っているかどうか知らないけれど、素晴らしく厚い手透きで。
それを道ばたの食品を売る所で包装紙に使っているわけよ。

ーもったいない!ー

そうなのよ、もったいないと思うでしょう?
それをね、イサムがね、これにいろいろプリントしてカードを作るとか
カレンダー作るとか、そういう事をしたらどうかって言ったら、あぁじゃあそれをしてくれって言われて。

わたしは京都にいたときにセラミックの研究所に通ったりしていて。
それの絵付けとか習っていたからわたしはそれをやり始めたんだけど、これも出来る、あれも出来るって言ってさ。
所長さんにこういう事がしたいから材料を買っていただけますかって言ったのよ。
そしたら、あまり熱心に仕事しないでくれって。(笑)

今から思えば最高の労働条件だけど。
でも何だこんな退屈な仕事なんて思ってね、もう一人子供生みたいって言ったのよ。
仕事だけじゃ退屈だから。
(笑)

二番目の子はだからカトマンズで生まれたの。
ちょうどその頃66年の暮れにね、欧米からのヒッピー達がグワーッと押し寄せたの。

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