9.30.2012

鯨の歌




風砂子:

それで彼が来てね。(ゴウシさんの友人の劇団四季の人)
それでクジラの歌っていうね、その頃捕鯨問題がすごい問題になり始めた頃で、
グリンピースなんかが捕鯨船を邪魔してたりして。そういう時だったの。

ミノも鯨関係の人をインタビューしてね、それがこっちの雑誌に載ったりしてね。 
そういう時代だったのよ。
で、彼が「鯨の歌」っていう脚本書いて。
それでわたしの友だちとか、メイ、ゴウシ、ミノもドラミングとかさ。
もうそこで周りのわたしと一緒に音楽を習っている人とかさ、
スリアっていうラマに一緒に住んでて、カトマンズでも会ってて、そういう人もジョイントしてね。 
彼はストリートパフォーマーだったの、昔は、ヒッピーの。
そういう人がみんな集まってさ、十何人集まっちゃってさぁ、それでやり出したのよ。
そしたらけっこうあっちこっちでさぁ、何回くらい公演したかねぇ、6、7回だったよねぇ。

ーサンフランシスコでも公演した?ー

サンフランシスコで… あのね、サクラメントでしたの。

ーサクラメント? サクラメントまで行ってやったの?ー

まで行ってやったの。
その時はジェリーブラウンが県知事で、カリフォルニア州の知事で。

州のなんかのイベントがあって。そこでやらないかって。
その時はね、ゲーリースナイダーが州のアートコミッションの一人だったのよ。
メイとゴウシはゲーリーと知り合いでしょ?
だからゲーリーが招いてくれて。

ーおもしろい!すごい時代じゃない? ジェリーブラウンは知事でー

Yeah! ゲーリースナイダーとか。
もう一人ラマによく来て、わたしにグルジの話しをしてくれた人もミュージシャンで、
やっぱり彼も州のそういう文化局の、ゲーリーと同じ文化局の局員だったの。

ーへぇ カリフォルニアってすごいことやってたのねー

すごい時代だったの、あの頃。何でもやりたいことが出来ちゃった時代だよね。
信じられない。

それでね、ゲーリーがもし続けたかったらね、州の文化局で資金を出してあげるって言ったのよ。
だけど、わたしはバークレーに来た一つの理由は、日本にちょっと子供達を連れて帰りたかったわけ。ミノも連れてね。
ミノにも日本を見せたいしね。
そういう希望があったから…バークレーに2年近くいたかな?で、もうどうしても行きたいと思ったから、それ断ってね。(笑)

ーたくさんの人はそういうオファーをちゃんと計算のうち入れるけどー

そうよ、飛びつくと思うよ。

ー風砂子さんは直感で、どんなオファーでも自分の直感の方に従って生きてる?ー

自分がやりたいことをやるしかないっていうさ。
やりたくないことは絶対やらないみたいなさ…いくらお金が出てもね。
そこがわたしの問題なのよ、でもこれは。
わたしの欠点なのよ。

ー欠点じゃないと思うー

違うかなぁ (笑)
ほんとぉ?

ーそれは絶対必要なこと。だから無駄の無いものがやってくるんじゃない?どこ行って何やっても無駄が無い…ー

そうかしらぁ。

ー必ず次ぎに続いて行ってるよねー

続いてきたねぇ、いままでね 不思議とね。
本当に不思議…


9.29.2012

ムーンバスケットを始める




風砂子:

日本から帰ってきて、わたし達家を借りたのね。
その時初めて独立した一軒家。 
やっぱり娘たちももう大きくなっているし。
前に三階の家に住んでいた時は、下の子二人はサイドのクローゼットみたいなところに寝たりして。
もうそれも出来ないから、家を借りたのね。

ミノはね、バークレーに移ってからすぐ「ドルフィンウッドワーク」っていう仕事を他の人と始めてね。
それでまぁ、もう一人の人がわたし達が日本にいるときにもその仕事を続けていたから、すぐにちょっとした仕事が入って。
わたしも何かしなきゃいけないから、なにやろうかな〜と思ってて、また思い出したのがメイ。
ちょっとメイに電話してみようと思ってさ。
メイに電話すれば鯨の芝居もhappenだしね。
メイは打ち出の小槌だ、とか思ってさ。
で、電話して。

わたしはその頃、縫い物とか全部自分で手でしてて。
だからすぐ出来るものっていったらそういうものかなぁと思って。
でも自分一人でやるより、わたしは何でもほら、グループでやりたいから、
メイに電話しようと思って、で、メイのところに行って。
「ねぇメイこういうのやりたいと思うけど、どう?やらない?」って言ったら「うん、いいねー」って言って。

彼女はしばらくゲーリースナイダーのところに移ってたりして、その時にね、松葉で作る籠の作り方をね、
その辺にいるインディアンの人から習ったんだって。
「ああそれいいじゃない」って言ってさ。
それだけじゃなくね、息子のゲンちゃんの友達のお母さんが陶芸家なのね。
その人も紹介してくれて。
あ、じゃあやろうやろう、っていうことで。
女性のグループを作って。
その名前が「ムーンバスケット」だったのね。
女性とクラフトを象徴する言葉でね。

ちょうどその頃に、福岡正信さんって知ってる? 自然農法の。
彼の本を、「わら一本の革命」っていうのを、英語にしてベストセラーになってたの。
それを訳したラリーコーンって人から、ナナオから聞いたって連絡が来て。

福岡正信さんをね、カリフォルニアにあるマクロビオティックをやっている夫婦がいて。
その二人がサマーキャンプにね、福岡正信さんを招いて講演してもらいたいからね、
その通訳をわたしにしてくれないかって頼みに来たわけよ。

わたしも「わら一本の革命」を読んで、すごい感動してたから。
あんな素晴らしい本を書いてくれた人のね、お手伝いならさせてくださいって言って、それを引き受けたのね。 ボランティアで。



福岡正信

9.28.2012

福岡正信さんの通訳になる




*福岡正信さんのお布団を作る

風砂子:

(福岡正信さんのカリフォルニア講演旅行で)奥さんも一緒にいらして、泊まるところを探しているっていうからさ。
わたし家借りたからね、「じゃあ家にどうぞ、お泊まりください」って言ったのよ。
だけど言ったものの、まだ引っ越したばっかりで、ベッドとか寝るところがないからね、全然。
どうしようかなぁと思ってさ。(笑)

ーそれは80年代の話、だよね?ー

79年。まだそんな家具とか買うお金なんてもちろん無いしね。
だからどうしようかなぁと思って。
日本に1年半くらいいたから、お布団の良さがすごく身に染みてたわけよ。
ね、もう何年も布団なんか寝たことがなかったからさぁ。
ああ お布団があったらいいのになぁって思ったわけ。

それで、またさっそくメイに電話して、打ち出の小槌のメイに電話してね、
「メイ、お布団の作り方知らない?」って言ったらね、メイが
「知ってるよ。わたしおばあちゃんのお手伝い、いつも子供の頃してたから」って言ったのよ。
そういえばわたしも子供の頃時々、お母さんとお手伝いさんがお布団作っているの見てたわけよ。
時々お母ちゃんが「フーちゃんそこ押さえてて」って言うから、一生懸命押さえてたのも思い出してね。
ああじゃあやってみよう、ってことになったわけ。
綿を買って。

もちろん一番安い綿だから、すごく荒くてすごく重いわけよ。
メイが手伝いに来てくれて、二人でもう一生懸命やってさ。
1日くらいかかってね。
あんな素晴らしい本を書いてくれた福岡さんのためだもの、ってもう
重ねに重ねている間に、出来上がったら本当に、二人ではとっても持ち上がらない。
ミノが仕事から帰って来て手伝ってくれてもなかなか動かないようなのになっちゃってさぁ。

メイと「鯨の歌の次は鯨の布団だね」って。(笑)
でもそうやってとにかく、福岡さん達が泊まれる布団は作ってね。

福岡さんが飛行機から降りて来た第一声が、「やぁ 空輸される牛、食牛の気持ちがよくわかったよ。」って。(笑)
福岡さんが初めて飛行機で旅したの。で、そう言いながら降りて来てね。

ラリーが車を運転して、奥さんとわたしが後ろに乗って。
ドライブしながら福岡さんの第二声が「ここの自然は自然じゃない」とかいってさ。(笑)
ラリーが「いや、ここは雨期は冬だからね、夏は雨が降らないからこんなに枯れているんです」って言ってさ。
そしたら福岡さんが「いやぁ雨は下から降るんだ」って言ったの。

ね、だから下がグリーンで木が生えてれば雨が降るわけよ。
でも、それが砂漠になっちゃったら、もうなかなか雨は降らないわけよ。
わたし達はその反対だと思っているでしょう? 雨が降らないから砂漠。
もちろんそれが、必ずしもパキッと分けられるわけじゃないけれど、わたしはもう本当に「うわーっ」とか言ってさ。

キャンプでのお話も、ものすごいわたしにとっても環境問題? 
わたしも鯨の歌で環境問題にだんだん興味持ち始めたんだけど。
やっぱり福岡さんの環境問題と、人間が使う資源としてね、環境を保護するのと、やっぱり福岡さんのように… 
で、わたしが途中で気がついたのはね。
福岡さんどこへ行ってもいつも下草を調べるの。座ってね。
下草を調べるわけ。
福岡さんの言うのは「人間がすることは何も無い。自然に道を譲る以外はなにもない」って言うのよ。

わたしは「へー人間することなにもないわーうれしい」とか思ってさ。(笑)
空の木を見上げて呆然と立ってるとさ、福岡さんはすぐこう、地面を這いずり回るようにしてね、下草を調べるわけ。
下草によって、それまでの環境の歴史とか、そういうのがわかるって言うのよ。

そんな感じで、すっごい影響をわたしに与えてくれたわけ、環境問題についてね。


9.27.2012

月籠ふとん店




風砂子:

そこにね(福岡正信さんのサマーキャンプ)ひとり、バークレーに住んでたっていう、日本人の若い女性が来ていて。 
一人しか来ていなかったけど… ほとんど日本人なんかいなくてね。

彼女が「わたし、もうバークレーで仕事探さないとね。もうちょっとバークレーに住んでいられなくて
…そのときアダルトスクールで勉強していて…もうそれも続けられないんです」って言ったのね。

そしたらまたわたしが突然さ、「ねぇ ようこさんお布団作ったらどう? お布団作ったら売れるんじゃない?」って言ったのよ。
そしたらようこさんも「えっ?」なんて。(笑)
でも考えてみます、って言ってバークレーに帰ったの。

福岡さんも、あっちこっちわたし達もいろんなところに講演とかに連れて行って、ラリーとね案内して。
それで日本に帰ったのね。
「いゃー布団のおかげでよく眠れた」って言ってさ。

しばらくしたらそのようこさんから電話があって、バークレーの地方紙に広告を出したら、結構注文が入ってね。
風砂子さんのアイデアのおかげでね、お金稼ぎましたって言うのよ。

だけど彼女が、「でもねわたし、今住んでるボーイフレンドと結婚してしばらく日本に行くことになったんだけど、
入ってる注文がまだあるから、風砂子さんに作っていただけませんか?」って言うのよ。

わたしも鯨の布団を思い出してさ〜 「えーまたあれやるの!?」ってもうすごい躊躇したんだけど。
でもわたしが言い出しっぺでさ、入ってる注文を反故にしたら、ようこさんに対して薄情じゃない?
だからじゃあやろうかって思ってさ。
それでまたメイに電話して。

ーすごいね、打ち出の小槌ー 
(笑)

手伝ってもらってね。
それで作りながら、「ねぇメイ、じゃあわたし達でお布団屋やらない?」って言って。
やっぱりクラフトショーだけでは、すこしは売れてもそんなお金になんないしね。
お布団屋始めようかって言ったら、「いいね〜っ」って。
メイはすぐいいね、いいね〜ってやろうやろうってことになっちゃったわけ。
そうやって始まったの。
それからどんどん発展しちゃったの。

ーお布団屋さんがね〜 あれだよね、コレクティブなスタイルよね。ビジネスの在り方もー

そうそう。コレクティブ。コレクティブ。

ーコレクティブの走りでもあるんだよね。バークレーでー

まぁ本当のコレクティブではなかったけどね。でもその頃はまだ、ビザのない日本人の女の人とかいっぱいいたからね。
誰でも雇ってね。

ーそれはいつ頃?ー

1979年に開店。

月籠布団はほんとにもう、働きたい時に働き、遊ぶときに遊びっていう感じでさ。
それがあれだけ出来たっていうのは、本当にすごいよね。

ー儲かったらみんなで遊ぶっていうー

パーティやったりショーやったり、そんなことばっかりやっててね。



ワーカーズ コレクティブ

9.26.2012

プルトニウムフリーフューチャー




*お布団屋さんのあとブティックを始めるが…

風砂子:

その頃はわたしもちょっと、お布団屋終わってから、母が亡くなったしね。
お金も時間もあったから、母が亡くなる時も日本に行ったりできてたから、だからそれは有り難かったしね。
でもやっぱりもうちょっと、なんかやろうかな、と思っていたら、
彼が売りに出してるって(ブティックを)言うから、ああそうって言ってさ、バリに行けるていうから…買い出しにね。
それをすごい安く譲ってもらってさぁ。やって。
それは三年ぐらい?やってたんだけど。
その途中に湾岸戦争が始まったの。

それまではやっぱりビジネスとかなんとかで、あんまりその政治問題?アメリカの政治問題も追求していなかったし、
いっくら何でもベトナム戦争が再び起こるようなことはあり得ないと思っていたから。
あまり関心も払わずに、ビジネスとかみんなと遊ぶこととか、そういうことにチカラを入れていたから。
自分の無知っていうかさ、怠慢っていうかさ、そういうのにバァーンと平手打ちを食らったっていうかんじでね。

そのビジネスなんてたいしたお金にもなっていなかったから、もうやっぱりこれをやめて
わたしはもっと社会的なことに加わりたいって言って。
ミノに言ったら、ミノもうんって賛同してくれたのよ。
わたし達の最低の生活はもう、出来るようになっていたからね。それでやり出したわけ。

1992年に日本がプルトニウムをフランスから日本に輸送する、それを機会にまゆみさんとかクレアとか棚橋さんとかが
「プルトニウムフリーフューチャー」を作ろうっていうんで、それにわたしも誘われたから参加してね。

ープルトニウムフリーフューチャーはずいぶん活躍したねー

うん、かなりしたね。十年近くね。
でもなんかみんなやっぱりもう、年とってきたりいろいろで… みんなそれぞれ違うことをしているしね。

ーでも「INOCHI」っていうー

「INOCHI」っていうあれはある。(非営利団体)
それをもし使ってなんかしたかったら、基金集めとかね、それは出来るわけ。その可能性はあるわけ。
非営利団体を作るのはすっごい面倒だから、それはとっておきましょうってことで。

ー「INOCHI」のおかげで後々ね、「地球の集まり」にしてもなんにしても、「INOCHI」を使わせてもらってしたことはあったよねー

そうそう。

ーここにいる日本人の中で「INOCHI」があるってことは、結構いいことよねー


INOCHI

核と原子力開発への想い



*反核へ向かうきっかけは…

風砂子:

お布団屋をやめた後、90年代にやっぱり「プルトニウムフリーフューチャー」とか、
そういうので…それまではそんなにわたしも核問題にも関心払っていなかったし。
でも日本のね、核廃棄物から 原爆の原料になる プルトニウムを取り出して、
フランスの再処理工場でね、それを日本に送るってことが1992年に起きて。

それを機会にアーティストの小田まゆみさんとか、棚橋一晃さんとか、
こっちのクレア・グリーンスフェルダーとか。
そういうひと達と「プルトニウムフリーフュチャー」というのを結成して、
そういう活動を90年代にはずっとやってたんだけど。

*核開発について

自然資源をね、どんどん規制していって、人間が。
それで結局たどり着いた最悪の科学技術の一つがわたしは核開発だと思うんですよね。

*原子爆弾と原発は同一のもの

原子爆弾と原発っていうのは、同一物だということにわたしは気がついたんですね。
「プルトニウムフリーフューチャー」の見方っていうのはそういうのであって、
原爆と原子力を完全に分けることはできない。っていうことは
原発を稼働していけば、原爆の原料がどんどん蓄積されていくわけだから。
だからエネルギーっていう名前だけで、開発していく原子力が決して核爆弾と関係ないっていう事には絶対同意できないんですよね。

*原発と政治は…

原発というエネルギーのために、これが無ければ人間は生きていけないとか、
そういう宣伝でね、そういうものをやっていく今のこの経済体制ってのがすごいはっきり見えてきて。

*自然への想い

原発の生命の起源?っていうのはもう人間より低いんですよ。40年とか50年。
いま人間は…もうわたしだってその2倍近く生きてるんだから(笑)

ー原発の2倍!ー

だからわかるんだけど、それはさぁ自然の過程なんですよね、
ありとあらゆる工業なりなんなり、年を経れば次第に薄れていく、というね。
そういうことをね、完全に人間が知るっていう事は出来ないと思うの、わたしは。
それを絶対にできるように幻覚をもってね、どんどんやっちゃうっていうのはやっぱり
自然に対する人間の傲慢さ、科学が絶対に自然を制覇できるみたいな、そういう傲慢さから来ると思うんですよね。

そういう傲慢さはどっから来たかっていうと、結局そういう自然資源をどんどん使って、経済力をどんどん高めて、そのチカラで世界中を支配しようということね、それはできる、みたいなね、そういう事にだんだんなってきてここまで来ちゃったと思います。

だから私たちは「プルトニウムフリーフューチャー」を始めてからチェルノブイリとかいろんなそういう歴史を見て、あぁこれは止めなきゃいけないって。
だって人間は何万年生きてきたんですか、そんなものなしで。
ね、
それで今になってそういうエネルギーが必要だっていうけど、そういうのもやっぱり、
産業の発展のために必要なんですよね。
今使っているエネルギーだって過半量は産業が使っているわけだから。
その辺りを知るとね、この核開発っていうのは人類史上最悪の科学じゃないかと思う。

今日本でほんとに心の底から首相とか原子力産業とかそういうの本気で聞いて信頼する人いるかしら、日本に。
まぁ石原慎太郎はそういうのがわからないやつは猿だ、って言ってたけれど、わたしはいま思うんです。猿になりたいと。
ほんとにそういうものを直感できるね、ものを養わなきゃいけない。

ーほんとそう思いますよ。自分一人一人がね。直感できる、でそれを表現できるー


そう、直感できる、で表現できる、それでそれを表現できるからにはみんなが聞かなきゃいけない。それでなきゃ表現もできないでしょ。
そういう時だと思います。

*直感や感性を見直すとき

直感とか感性っていうのは、科学的な脳と同じように、この母なる大地から与えられた命の感性なんだから、それをやっぱりね、今もうちょっとね、大事にしていかなきゃいけない、見直さなきゃいけないと思うんですよね。
そういう所にきちゃったような気がする。



9.15.2012

なぜ大麻が禁止されたか




*麻について
風砂子:
大麻っていうのは麻なんですよね。まぁいくつかの種類があるけど。
日本でも、世界中でも何千年にも渡って資源として使われてきたもので。
その中の一部がTHCっていう幻覚剤みたいなものをふくんでいるんだけど。
それ全然含んでないものもあって、日本なんかほんとに雑草のように生えていたらしいんですよね。
神道のいろんなお祭りなんかにも、燃したりね、食べ物、オイル、それから縄、縄を作るのにすごい重要なもので…
紙も作り出したりね。そうやってずーっと使われてきたんですよね。
で、アメリカで最初にそれを禁止したのが1937年。
アメリカでも最初の憲法の下書きは麻で作った紙に書かれたっていうのも伝わっているんですよね。
*資源としての麻を禁止した理由
テレグラフがいろんな本の屋台があって、そこでこの「THE EMPEROR WEARS NO CLOTHES」っていう本を見つけたんですよね。
そこでアメリカの麻の歴史を学んだんだけど。
わたしは最初は日本で麻が禁止されたのは多分明治時代になって、
いわゆる西洋文明が入ってきたころかな、なんてなんとなく、
そんなに真剣に考えてたわけでもないけど、何となく考えてたのね。
でもわたしが子供の頃には、佃煮なんかに麻の実がいっぱい入ってて。 
麻っていうのはほんとに生活の一部だったのね。 
ところがそれをアメリカが1937年に禁止したわけ。
そのときにマリワナっていう言葉を使い出してね。
いわゆる、ドラッグ、麻薬のマリワナっていうのをありとあらゆる種類の麻に使ってね。
その頃はね、まだニューヨークに麻を吸うカフェが一杯あったらしいんだけど、
主にやってる人っていうのはジャズミュージシャンとかアフリカ系メキシコ系の人とかが多くて。
それを理由にね、麻薬的な要素の無い麻まで全部禁止したんですよ。
それにおおきな役割を果たしのがハースト、新聞王と言われているね、
ハーストがマリワナは、麻は、ヘンプは、こういう黒人達にドラックとして使われているというのを理由に禁止したらしいんですけど。
ちょうどその頃、化学繊維、化学薬品、そういうものがずっと出だしてきて。
それから紙ね、木を使った紙、そういう産業が発達してきて。
そのためにこの麻のね…
一年草だから、すごい収穫があるわけ。毎年収穫ができるらしいの。 
だけどそれをね、そういう自然の資源を禁止してしまったっていうのをこの本で学んでね。
まだわたしもお布団屋をやっているときに、ここの寝具がね、お布団から掛け布団から枕まで、全部化学繊維で煮詰められてて。
皮もそうだっていうのにすごいショックだったんですよね。
そうしてこの本を読んで、ああこういう風にこのアメリカの経済発展が行われてきたんだってやっとはっきりわかったんです。
マリワナという幻覚剤を含んだ、そういう要素を含んだヘンプを禁止するために、資源として全然毒でも何でも無いものを禁止してしまうっていうね。
このアメリカ、まぁアメリカだけじゃない欧米かもしれないけど、最初に禁止したのはアメリカなんだから。 
でそうやって世界中で禁止して。
日本ではもうほんとに雑草のように生えてたこのマリワナを、日本で禁止したのも第二次大戦後の占領軍だったんですよ。
それもここで学んだの。

9.14.2012

シャーマニズムを見直すとき



風砂子:

お伽物語の人間と動物の交流、動物とか植物の、
そういうのなんかこの大人になってみると馬鹿みたいって思えるかもしれないけれど、
わたしはやっぱりそれね、もう一度見直さなきゃいけないと思う。
そういう話が出てきたっていうね、
シャーマニズムとか、アニミズムとか、そういう歴史をね…だって何万年ってそうやって生きてきたんだからね。 
やっぱりちょっと見直さなきゃいけないかなぁと思うんですよね。
今の社会から。

大地というのは、人間が征服するものではなくて、あらゆる命とね、共存するもの。
それがアメリカインディアンの哲学でもあるしね。 
アメリカインディアンの場合はほんとにもう、
自分たちだけではなく、七世代後の命の事を考えなきゃいけないっていうのが、
アメリカインディアンの教えでしょ。

それをね、今もう一度私たちも考え直さなきゃいけない、見直さなきゃいけない。
ここまで人間の科学技術と、それに対する過信、傲慢さ、
ここまできちゃったからにはね、やっぱり今それが必要かな、と。

9.13.2012

子供について




風砂子:
母が亡くなる2ヶ月前に初孫が生まれたの。 Hanaがね。
そのときHanaのお母さんのヨウはNYのビジュアルアートカレッジに通ってて、で彼女から「ママ、わたし妊娠した。 
生みたいから、バークレーに帰って生む。 ニューヨークじゃちょっと大変だから。」って電話がきたのね。 
そのときわたしのイメージにふっとね、白い根っこが浮かんだの、わたしの根っこが。
”えーこのアメリカの大地に、想いもしなかったアメリカに。わたしの根っこが生えるのか” 
すっごいそれがイメージだったの。
自分がおばあちゃんになってから、道でであって目がいくのはみんなこどもなの。 
ほんとに不思議なの。
もう男なんかに目がいかない。(笑) 
ほんとに子供ばっかり。
大人が子供に教育されなきゃいけないってすっごく思い出したわけ、孫ができてから。 ほんとにすごいから。
それはさっきも言った、動物との交歓とかね、自然との交流っていうか、お互いの分かち合い? 
それがやっぱりすごい必要だと思う。
あらゆる命の生き方をね、もうちょっと感性的に学ばなきゃいけないと思う。
それがほんとに子供がわたしにとってはまた次の教えをいろいろとくれたわけ。
わたしだってそういう放浪生活のなかで、子供はすごいなーってほんとに思ったり。 
ーあとはやっぱり、コミュニティの中でね。たとえ自分の子供がいなくてもー
そう、それを分かち合う。それだと思う。 
だから自分の子供じゃなくてもいいわけよ、別に。遺伝的な。 
もともとコミュニティとはそういうものでしょ。
ーおじいちゃんおばあちゃんいなくてもね、そばにね。一番近いお年寄りがみるとかねー
そうそう、だってわたしの夫のミノだって、ほんとの、遺伝子の親じゃないのにさ。
ーお父さん、おじいちゃんでね。あとコミュニティのおとうさんでもある。
いつもお世話になってね、みんなー
そうそう (笑)
ーそういうものが世界中にたくさんあると結構よくなるね、これからもー
これからもっともっと発展していってほしいね。
で、その中で少しずつ…人間のためだけじゃなくて…
あらゆる生物にとって大切な改善が出来ていったらいいなと思います。

9.12.2012

自分を開いていく




*システムを頼らず、自分を信じてきましたか?

風砂子:

私の場合は自分を信じるっていうよりも、芸大だったから、
やっぱりアーティストっていうのは、他の東大生とか、経済学者なんかに比べたら、
やっぱりどっかこう、フリーでさ。 きちっとしてないとこがあるグループだったしね。
もともと私の育った家っていうのが、まぁそうだったからね、っていう事もあるし、
いろんなそういう影響があってね。

60年安保のあと、日本は高度経済成長でバァーンとそっちに行き出したんだけど、
ちょうどそのときに、わたしはイサムがインドに行っちゃって帰ってこないから
私もインドへ行くという正反対の方向へ行ったわけ。
そこでヒッピー達に出会って。

そういうのもね、自分がこうしようって選んだわけじゃないんだけど、
なんか自然にそうなっていく…みたいなね。
ほんとに自分の人生不思議だなぁと思って。
誰がこの脚本書いてるんだろうと思って。(笑)

いろんな出来事が次々起こってね。
だからそれにやっぱり自分を開いていく?
それに閉じていたら…私だっていろいろあって
母からも叱られたし、何そのいい加減な、キチガイみたいなってさぁ。
でも叱られて、恐れて、自分を閉じちゃっているってことが、まぁ私の場合は出来ない性格もあるし、
しなかったからってこともあるよね。

やっぱり人生の状況っていうのは、必ずしも自分が選ぶようにはいかないから…
どっちかっていえばほとんどの場合。
だからその中でやっぱり自分が何を受け入れて何を拒否するかね、自分で決める事だと思うのよね。

9.11.2012

バークレーの母として




*いつもドアの開いている家

ーこれはわたしも習いたいなっと思って…ずっと出会った時から思っているのは、
結構ドアがいつも開いてて、風砂子さん家のね。
誰でも入ってくるでしょう? 泊まってるでしょう? ごはん食べてるでしょう? 台所がみんなの台所っていう感じでしょう? 
おおきなテーブルがあって、みんながいつもそこで食べるっていう。これはすごい。 内と外の分けがないない感じー

それはやっぱりね、コミューン体験だしね。それとやっぱり家の、わたしの生家の、お店の人たちとかさ、そういう人たちとかね。
わたしの家自身もね、結構家庭として、いろんな人がいつも集まってくるっていう感じだったの。
まぁ 今のわたし達ほどじゃないけどね。
家のお父ちゃんだって、エスペランティストだから、そういうグループを広げたいみたいなこともあるし。
母もけっこう、そういう性質だったから、それもあるかもね。

ーバークレーの母と言われてー

うん、そうそうそう。(笑)

ーこれはなりたくてなかなか出来ることでもないなぁと思って見てるねぇ ずっとー

そうよ、なりたいなんて、わたしだって思ったことないもの。

ーでも人は入ってくるからー

(笑)



ーあと、ミノさんが同じペースよねー

ミノもほんと… でもね、しばらく前にはわたし、あぁミノはそういう人じゃないってことも感じたこともあるよ、結構。
でも最近はやっぱりね。

ー夫婦で同じ気持ちでいるから、行く方も別にね、この家に行くって感じで…あまり気を使わなくてもー

そうよね。
でもね、今は昔に比べたら…昔はもっとすごかったもの。
日本からのヒッピー達がどんどん来てさ。
家に居候がいないときなんて、あまりなかったかもしれない。(笑)

ーすごいよねー

やっぱりそれはコミューン生活の影響だね。

ーでもいいよね。何よりも人が繋がっているっていうのが一番大事ー

わたしもそうだと思う。
わたしもやっぱりそれが一番大事だと思う。

だからそれこそ、こういう政治的な問題にしても、政党の意見とか政策とか、そういうのじゃなくて、
一人一人の人との繋がり、それがやっぱり一番いいと思う。

*一番大切なもの

ー今まではお金とか物質とかそういうものを追い求めていたでしょう?ー

そうそう、そういうのが多数派だったでしょう?
それがもう、ここまで来ちゃってさ。 それこそ原子力科学なんてさ、核化学なんてわたしはもう最悪のものだと思うから。
ここまで来ちゃったから、もう変わるしかしょうがないよね。

人間のいのち、人間だけじゃなくてさ、命、やっぱり一番大事だよね。