10.31.2012

子供時代ー戦争とエスペランティストの父







風砂子:


わたしのお父さんはほんとにアナーキストで、東京で学校へ行っていたんだけど。
エスペラントって知ってる? 国際語。その頃…第一次大戦後かな? 
世界中で、特にヨーロッパでね、世界平和のためにはみんなが一つの言語を話すのが大事だって。
そのエスペラントっていうのが生まれたのね。

わたしの父はそれをそれを一生懸命勉強して。
ザメンホフっていう人がそれを創造してね。
で、その人の写真の額がね、うちのお座敷のところにこうあって。
それを見ながらわたしは育ったの。

第二次大戦があったときにも、父はもちろん戦争に反対で。
そういう戦争のさなかにね、エスペラントのビラをはってたっていうね。

普段はその頃は警戒警報があって、で、空襲警報があって。でもその夜は警戒警報がなくて。
わたしたちはもうみんな寝てて。突然ばーっと光が…で目が覚めて。
道がもう埋まってて、まるで蟻のように逃げる人で埋まってて。
警戒警報が無かったから誰も準備していなかったわけよ。

わたしたちが防空壕に入ろうと思ったら、お寺にばーんと焼夷弾が落ちて行けなかったし。
わたしとお姉ちゃんが手をつないでお母さんの後をついていったんだけど、途中で迷子になっちゃって。

子供時代のそういう体験っていうのはもう、種だよね。あらゆる人生のね。そういう種はわたしも撒かれちゃったし。
でも父の影響もすごかったよね、わたしにとっては。
絶対戦争なんかいけない、っていうね。

10.30.2012

十代の頃







風砂子:


わたしが高校生の頃、「わだつみ会」ってのがあったの。
第二次大戦でほんとに数えきれない程の若い兵士達が亡くなったわけでしょ。
海神の声っていうさ、「わだつみの声」っていう本が出たりして。その兵士達のノートとか集めてね。
もう絶対にこういう事をしちゃいけないっていう「わだつみ会」ってのができたの。


それも上級生に誘われて、入らない?っていうからウンっていって。

富士山の麓でキャンプしたりして。それがすごく楽しくてさ。
わたしは何でもそういうのが楽しくって参加するのね。(笑)


それは安保闘争でも同じなの。芸大に入って、社会問題研究会を発足っていうビラがあったの、食堂に。

わたしはわだつみ会とかうちの父とか、そういう影響があったけど、芸大ってのはそんなにね…
その前にもいろんな学生運動があったんだけど、わたしの兄なんかも東大で結構いろんな…球場にデモ隊が入っていこうとしたとかさ、いろんな運動があったの、50年代にも。
わたしの兄も参加してて、帰ってくるとそういう話を聞かせられてたから、そういうのが自然だったのね。


でも芸大ってのはあまり政治的な事が無い学校だったから。
わたしも芸大にいてもね、そんなに情熱がわかなかったわけよね。

そのビラを見たときに、古い友だちにでもあうようなかんじでね、ワーとかいって。
それが芸大に入学して2年ぐらい経った頃かな? で出席して。


その部屋に入って最初に飛び込んできたのが不思議な男だったの。(笑)


10.29.2012

秋野亥左牟さんとの出会い




風砂子:

もうほんとに背が高くてね。肩の破れたTシャツとかさ。
芸大ってのはもともとそういうね、バガボンドとかさ、そういう関係の人が
多くて、東大生とかああいう感じじゃ無い人が、いっぱいいたんだけど、
イサム程の人はわたし見た事無かったから。 

びっくりしたの。ウワーっていう感じ。

ーこういう人初めて見たって感じ?ー

そうそう、でも彼が発言するその言葉には、あぁわたしが思っていることを
言ってくれてるな、っていう感じがしてね。自分では言葉にならない事を
言ってくれてるな、っていう感じがすごくして。

社会問題研究会。
社研で、千葉県の海岸に行ってね、漁師達の姿を描こうっていう計画もでてさ。
ちょうどその頃は警職法とか、砂川闘争、砂川基地の闘争とかね、いろんなのが
出てきていてね。
そういうのももちろんだけど、労働者の、漁師達の姿を描こうって、そこに行ったりして。

わたしとイサムが偶然…もう一人の子が行く予定だったんだけど…偶然下見に行ったわけよ。
そのときに(二人の仲が)近くなって。

確か、警職法反対闘争のときだったと思うけど。
そのときね、デモに行って月島埠頭を歩き回っていたらさ、二人でね、夜中になって終電に遅れちゃったのよ。
しょうがないから野宿して。
(笑)
そっから始まったの。

その後でね、彼がね、これを引き上げながらね(とパンツを引き上げる仕草)
「ええコミュニストになろうや」って言ったの。
(爆笑)

10.28.2012

結婚 妊娠 安保闘争の終わり




風砂子:

(三池)炭坑(闘争に参加するため)に行く途中、京都に寄ってね、結婚したの、イサムとね。 
結婚と言っても、家族と友達を一人二人呼んでね、京都ホテルの食事を一緒にするっていう結婚式だったのね。
でもそのとき市役所から結婚届をもらってきて、それでサインしてね。
でも次の日にホテルから「結婚申告書が忘れてありますって。」

三池しんほくしょ炭坑でしばらくいたらね、わたしすっごく具合が悪くなっちゃったの。初めて、経験した事の無いようなね。
それで、もうどうしようもないから京都に帰って、イサムの実家にね、でお医者さんに行ったら「妊娠です」って言われたの。

それでも東京に帰ってね。東京ではまだ2学期が始まって。
だけど、東京でも一緒に安保闘争をやった仲間が反省会をやってね。
わたしたちのグループももちろんやったのね。

わたしその前にね、イサムに勧められて共産党に入党したのよ。
そのときにイサムがわたしを紹介したのはね、
「風砂子は本とか全然読まないし、趣味とかなんかはわからなくても、すごく感性的に革命を理解している。」とわたしを紹介したの。そのグループに。

”細胞”っていうのね、そのグループを
オルグっていって、共産党の本部から指導にくる人がいて。
で、その指導にきていた人が、今から思えば彼だってまだ30前後だったよね、でもすごくやさしい、素晴らしい人でね、
わたしは彼に対する信頼感があったから、入党ってもの悪くないなと思って。
わたしの兄だって入党してたしね。

その頃は共産党なんて今の共産党の概念と全然違って、すごいポジティブな面もあったからね。
で、共産党細胞でもいろんな反省会があって。みんな言葉が途切れるし、失望的だったのよね。
ちょうどその頃にさんちゃんっていう共産党のオルグの人が、いつもオートバイに乗ってくる人がオートバイをぶつけてね、死んじゃったわけ。
それが事故だったのか、故意だったのか、永遠にわからない。奥さんもいたんだけどね。
わたしにとってはそれがほんとに安保の結末だったんだよね。っていう感じがした。

10.27.2012

インドへ





風砂子:

妊娠して、で子供が生まれて、まだ一年も経たないうちにイサムのお母さんから電話がかかってきて。
で、お母さんがインドのタノール大学にね、客員教授でね、日本画の、行く事になったのよ。
それでイサムに一緒に行ってくれって。助手でね、一人じゃ不安だから…って。

そのお母さん六人子供がいるのに、ノラが生まれたばっかりなのに、イサムを連れていっちゃったのよ。(笑)
ノラが一歳になった直後くらいに。

わたしもその頃はあまり外国に行くなんて事がなかったからね、日本人が。
パスポートだって自由におりなかったし。行く先に保証人がいないと、パスポートおりなかったんだよね。
ドルがさ、一ドル360円、っていう時代だったから、外国に行くなんてそんなに誰もが出来る事じゃなかったの。

わたしも好奇心でうわーすばらしいじゃん!って言ってね。
わたしもそんなにノラと二人だけでどうなるかなんて考えなかったからね。
でイサムが行っちゃったのね。

お母さんは一年。わたしはイサムの兄弟達と住んでいて。
わたしの母もすごい心配して、大丈夫って言ったけれど、うちに来て住みなさいとは言わなかったわけよ。

お母さんは一年の年季が済んで帰って来たんだけど、イサムはインドにハマっちゃって帰ってこないわけよ。(笑)
とにかく、わたしも行ったわけ。

そしたらね、イサムがね、ボンベイでマルワリ族というビジネス階級の夫婦に出会って。
その人たちがもしわたしが日本の電気製品を買って運んでくれたら、わたしたちの船代を出すって言ったんだって。
そういう人に出会ったわけよ。

だからわたしは早速秋葉原にいってさ、ちょうどその頃は1960年代のはじめ?
63年ぐらいだったから、日本の電気製品が出始めたわけよ、世界中に。
カメラとかコピーマシーンまで出来ててさ、それからソーイングマシーン。
そういうのを買い集めてね、船に積んで、船で行ったわけ。


10.26.2012

バークレーのコミュニティについて





*風砂子さんにとってバークレーとは…

風砂子:

わたしが最初にバークレーに来たときに、それまでカナダとニューメキシコでコミューンに住んでたんですよね。
3、4年ぐらいかな。
バークレーに越して来たときに、コミューンもそれだけ住んだら“まぁもう体験したからいいか”っていうことと、
それでやっぱり一度この西海岸に来て、一度日本へ帰りたいっていうのもあったから。
子供達にも、新しいパートナーのミノにもね、日本を体験して欲しいっていうのもあったから。
そして自分も、自分がこれだけ変身して日本へ持って行ったらどう感じるかっていうのもあったしね。
一度日本へ帰りたいっていうのがあったから、ここに来たわけよね。

それで、そのときにわたしはやっぱり”これから自分がどこに住むにしても、
どんな都会に住むにしても、”自分の周りにコミューンを作る”
それが一番大事だな”って思ったわけ。 
自分のコミューン生活の体験からね。

それまで他のコミューンに住んでいたときは、
その前からも5年近く日本語なんてしゃべらなかったの。
日本人あまりいなかったから…
そういう環境に住んでいる日本人なんて稀だったからね。

だからバークレーに来て、最初にあったのがゴージとメイで。
で、メイの日本語聞いたときにほんとに”あぁおいしいお汁粉のようだ、甘~い声だなぁ”と感動して。
それからいろんな日本人のグループとも。
もちろん日本人だけじゃないけど、日本人の人と、やぱっり日本語でおしゃべりするのと英語でおしゃべりするのとまた違うからね。
これはもう事実で。差別とかそういうのじゃなくて。
違うからやっぱり日本語でしゃべれるコミュニティがあるっていうのも、素晴らしくよかったんですよね。

もちろん英語をしゃべる人たちのソサイアティも
60年代のムーブメントを先導したコミュニティだから、
だからすごいいろんな自由だしエキサイティングなものもあるしね。
それに加えて日本語で話せるグループがいるっていうのは
すごく安堵感がありましたよね。

船旅を経て夫と再会





*船旅を経てインドへ

風砂子:

でもねぇ 今にして思えば船の旅ってほんとにもう、地球の大きさがわかるのよ。

ー何日くらいかけて?ー

ボンベイに行くのに3週間。

ーうわ~ー

あーどこにいるかな~と思って(イサムさんを)みたら…結婚式のときにね、京都の高島屋の安売りラックから背広を買ったわけよ。
初めて。グレーのね。 
それを着て埠頭にいたからさ。

ーわ~ー
(笑)

それでこう、船に上がってきたのね。それまでわたしも、わ~っと思ってたんだけど。
それでノラを抱き取ってね。
そうしたらもう、今までこの中に溜まってのがもう、沸騰してさ、爆発してさ、うわ~んと泣き叫んだわけよ。
今まで溜めてきた…大変だったのよ、やっぱり。姑とその家族でさ。

すっごいボンベイの郊外のね、アーティストコロニーっていう、アーティスト達の村、部落みたいのがあって、そこにすっごいアーティストのスタジオを借りてあったわけよ。
そこに入っていったらね、新しい金属製の家具とかさ、ベットと戸棚とテーブルとかあるわけよ。

「わーすごい、家具まで買っといてくれたの?」とか、言ったらさ、「こんなすごいとこ借りてくれたの?」とか言ったらね。

「お前達を迎えるために(家も)借りたし、家具も買ったんだよ。借金して。」って。

(爆笑)


10.25.2012

インドの生活




*借金から始まったインド生活

風砂子:

わたしもイサムがどうやってお金を稼いでるのかとか、そんなのも何も知らずにね。
平気でまた行っちゃうってものね。 (笑)

ボンベイで日印協会(日本インド文化協会)みたいなのをやってる人がいて。
そこでイサムは日本語を教えたり、折り紙を教えたりしてね。
そうやってわずかなお金を稼いでいたらしいの。

そしたらイサムがね、日印協会のボヘカワさんっていう会長さんが、わたしが日本から来るっていったら、じゃあ、その協会でぜひ、生け花教室を始めてほしいって言ってるって言うのよ。日本人の女性が来るっていうんでね。

だから生け花を教えないか、って言うのよ、イサムが。(笑)

わたし生け花なんか習った事も無いのにさぁ。(笑)
でもねぇ、稼がなきゃしょうがないからさぁ。

だからまず、観光旅行だの一際する前に図書館に行って。
英語のね、生け花とか、草月流とか池坊とかね、結構そういう本があったのよ。
そういうのを読んでね、ちょっとだけ勉強したの。(笑)

で教えたら、結構生徒が増えて、他でも開いてくれとか生け花展やってくれとかね、美術大学でね。
わたしはもう”やめてぇー”とか言って叫んだらね、イサムが”じゃあ前衛スタイルで”って。(笑)
自分が石膏でオブジェを作るから、それに花を活けたらいいって言うから、わたしも”ほぉー”っと感心しちゃって。(笑)
それでやったわけよ。

その頃ボンベイにいる日本人っていったらね、領事館と三井三菱の大企業の数人の人たちがいるくらい。
あと日本山妙法寺のお坊さんが住んでいる、それぐらいだったのね。
その展覧会にはね。三井三菱の奥様方がみんなきて。(笑)
「わたし草月流は全然だめなんですよ」って。
彫刻に花をちょっとだけ置いたりしたからね、草月流だと思ったのよ。

ーちょっと冷や汗ねー

(笑)
もー冷や汗どころかびっしょりよ。

でも一度そういうのに慣れちゃうとね、平気になっちゃうの、何やってもね。
(笑)

10.24.2012

ネパール




*借金を返した後

風砂子:
ネパールで農業指導していた…やっぱりネパールにも(日本人が)ふた家族ぐらいで…
まだその頃は…その人がイサムとどこかで出会って、わたしが行く前にね。
その人がわたしたちに、ネパールの工芸指導所っていう所で仕事を見つけてくれたの。
わたしはもうほんとに、ニセ師匠から解放されてうれしくてさぁ。(笑)

それでカトマンズへ。
そこの仕事っていうのが面白くてね。
工芸指導所っていうんだけどね、政府のね。
朝10時から午後4時までの仕事で、お昼になるとお茶をやる小さな場所があって
みんなそこに集まっておしゃべりしてね、仕事なんてなんだって感じよ。

ネパールで(当時)すごく素晴らしい手透きの紙を作っていたわけ。
今も作っているかどうか知らないけれど、素晴らしく厚い手透きで。
それを道ばたの食品を売る所で包装紙に使っているわけよ。

ーもったいない!ー

そうなのよ、もったいないと思うでしょう?
それをね、イサムがね、これにいろいろプリントしてカードを作るとか
カレンダー作るとか、そういう事をしたらどうかって言ったら、あぁじゃあそれをしてくれって言われて。

わたしは京都にいたときにセラミックの研究所に通ったりしていて。
それの絵付けとか習っていたからわたしはそれをやり始めたんだけど、これも出来る、あれも出来るって言ってさ。
所長さんにこういう事がしたいから材料を買っていただけますかって言ったのよ。
そしたら、あまり熱心に仕事しないでくれって。(笑)

今から思えば最高の労働条件だけど。
でも何だこんな退屈な仕事なんて思ってね、もう一人子供生みたいって言ったのよ。
仕事だけじゃ退屈だから。
(笑)

二番目の子はだからカトマンズで生まれたの。
ちょうどその頃66年の暮れにね、欧米からのヒッピー達がグワーッと押し寄せたの。

10.23.2012

ヒッピーとの出会い




*ヒッピーに初めて出会う



風砂子:

その年の暮れに「クリスマスをカトマンズで」というスローガンが… 
その頃みんなヒッチハイクしてて、ヨーロッパのヒッピー達が、それとアメリカの徴兵拒否者たち。
そういう人がカトマンズにばーっと押し寄せて来たの。

わたしも始めてその中の一人を見たとき、道で会ったときにね、ほんとに目がくらむような感じでさ、うわーっと思ってね。
それで、その人たちが集まってるカフェがあって、そこに一度イサムが行っていろんな人に会ってね。
”すっごい面白い奴らに会った”とか言ってね。
そしたらわたしのアパートがまるでヒッピー集会所になっちゃったの。

わたしは妊娠中だったから、あんまりこれは(タバコを吸う仕草)(笑)

その頃はね、カトマンズの公立の薬品店でね、ハッシッシ売ってたの。
ハッシッシってほらマリファナを焙じたようなものなのよね。
そんなのもう、何千年って使ってたわけよ、いろんなところで。ネパールだけじゃなく
ていろんな国でね、昔から。
それをまだ公立の所で売っている時代だったの。
それもあってヒッピー達が来たのかなと。
ネパールがほんとに国を開いてからそんなに経っていなかったのよね、その頃。
あれはすごかったね。

わたしずっと眼鏡かけてたでしょう? 生け花師匠のときも(笑)
でもヒッピー文化に影響されてから、
”なんでこんなにいつも眼鏡かけてなきゃいけないの? 世界が少しぼやけて見えたっていいじゃない。わたしのイメージなんだからいいじゃない”なんて言ってね。
で、眼鏡をポーンと捨ててさ、川に。(笑)

わたしたちのアパートの下に住んでたチベットの人がいてね。
その頃、チベットから紅衛兵革命で、中国がすごくチベットに入って来てお寺とかを破壊してね。
チベットのタンカ、密教画、そういうのをね、カトマンズの街でみんな少しずつ売り出していたのよ。
ロソンさんっていうその人がね、これはチベットの哲学である宗教の美術なのに、
西洋人が来て”これはうちの壁の色に似合う”とか買っていくわけよ。それが耐えられないって言ってね。
で、イサムに、日本に持って行ってこれをまとめてどこかへ貯蔵できないか、って話てきたわけよ。
そんなんで、わたし達一度日本へ帰ろうってことになったのね。

10.22.2012

好奇心をもつこと



バックヤードで風砂子さんにいろんな質問をしてみました。
今日は”好奇心をもつこと”について。

*不安や恐怖がなさそうですが…
風砂子:
そうねぇどっちかって言えば、わたしはそんなに不安とか恐怖を感じる性格ではなかったけれど、でもやっぱり子供三人連れてね、ヒッピーになってあちこちしてた時はもちろん不安だったけれど、わたしはやっぱりそれをね、なんて言うのかな、ポジティブなほうにね、持っていくっていうね、そういう性質だったと思うのね。
それでなにかショッキングなことが起こると、例えばわたしの最初の夫と60年安保の最中に出会った時とか、「何この男!」っていうような、すごいショックだけど、そういうのに惹かれるね、性質があったと思う、昔から。 *画家の故•秋野亥左牟さん
カトマンズで最初にヒッピーに会ってもほんとに「ウワーっ」っていう感じで。
「何このビーンングは!裸の魂…それともキリストがヒマラヤを越えてきたのか」みたいなさ。
ほんとにこういう金髪でね、それに白いサドゥをまとってさ。もう目なんかほんとに宇宙を見つめている目で。
カトマンズのちっちゃな狭いさ、あの頃のカトマンズっていったらもうほんとに街全体が寺院とかそういう感じで、仏像とか神像が町中に立ってて、そういう中をそういうヒッピーがこうやって歩いてる…あのとき本当にショックだったね。
そういうのを見るとね、わたしは興味を惹かれるの。
その頃ほとんど日本人は住んでなかったけど、その中の人たちは「なんだあいつらは」ってこういう目をするわけよ。「何だあいつら、気違いじゃないか」みたいなね。
でもわたしも、元の夫のイサムちゃんもそういうのにね、すごい興味をもつ、好奇心があったの。
そうね、もちろんイサムと別れた時もそうだし、大変な事はいっぱいあったけど、でもそんなに恐怖っていうのはなかったっていうのは、まぁ幸いだったか不幸だったか…(笑)それでここまできちゃったみたいな。

10.21.2012

日本そしてメキシコ



*日本へ戻る


風砂子:

わたしたちが出た日本… わたしは4年前に出て、イサムは6年前に出たのよね。
その日本とわたしたちが帰った日本はもう全然別世界でさ。
だって60年安保の後、高度経済成長でぱーんと行きだして。

その頃日本でも、フーテンとか、そういう人たちも出始めてて。
イサムがそういう人たちに向かって「旅に出ろ!こんな日本の経済成長の世界にいるな!」とか言ってね。すごいアジりまくったわけ。その60年代安保闘争の同士達にもね。

わたしの妹が芸大のイサムと同じクラスの彫刻家の人と結婚してたわけ。
その妹の旦那さんがイサムにアジられて旅に出たのよ。イサムももちろんその後出たの。

そのときわたしたちはチベットのタンカ集をある建築会社の人が買ってくれて、そのうちのわたし達には想像もできないような結構なお金をチベット人の人がくれたから、それがあるうちに旅に出ようって、イサムだけ行っちゃって。
わたしはケシを妊娠中だったから。
で、一年経ったらメキシコで会おうって。(笑)

うちにしょっちゅう遊びにきてた男がメキシコに行きたいっていうから、じゃあ一緒に子供手伝いしながら、旅費を払うから一緒に行ってって。わたしもとにかく、そのお金がなくなる前にとにかく日本を出たいと思って。もうイサムが帰ってくるなんて絶対ないしね。
だから日本を出たいと思って。それでメキシコで会ったわけ。

そしたらまたイサムがね、メキシコでお土産に一ドルずつ、子供達に一ドル札を一枚ずつお土産だって。(笑)
で、わたしにはLSDをお土産だって。(笑)

全然わたしはね、自分の人生ってほんとに自分の意志じゃないと思うんだよね。
自分の意志というより、なんかね、もう即興劇だよね。

ーなんかおっきな流れに流されているというかー

そう、流されて、ほんとに
で、その中でいろいろ数奇な出会いがあって、ミノとの出会いもそうだしね。

これはまた次の章なんだけどさ。(笑)

10.20.2012

メキシコからカナダへ



風砂子:

カナダでね、イサムがほら、インドで拓本取ってたのよ。知ってる?拓本って?
あれをいっぱい取ってたの。カトマンズで。お寺の石像とか門とかね。それのね、展覧会をカナダで、カナダの美術館がしてくれて。
それもあってカナダに行ったんだけど。

カナダはその頃それこそヒッピーのたまり場でね。 徴兵拒否者とかね、戦場からの脱退者、そういう人をみんな受け入れていたの、その頃は。その頃はね。

それでわたしとイサムちゃんが居住権を取りにいったときも、もう二人ともギンギンのヒッピーで一文無しで子供三人連れて。それでもすぐビザくれて。

で、しかもね、ウェルフェア関係の人がわざわざ会いに来てくれて、もし必要だったら供給しますよって。わたしたちのいでたちを見て。(笑)
そういう時代だったの。
でもそのほんとに数年後にもう、カナダの入国権の政策も変わってね、すごい厳しくなったんだけど。
その最後だったのよ。

ーいつもそういう時代のいい変わり目の波に乗ってるよねー

いっつも変わり目にハマっちゃってるのよ、なんでか知らないけど。

ーいいときに入って、変わってくると出るっていう…なんかそういう波だよねー

なんかね、そうなのよ。不思議よね。

10.19.2012

カナダのコミューン 1



*アメリカインディアンに誘われてネイティブのイベントへ

風砂子:

カナダにもいろんなヒッピーハウスが、共同で借りて住んでるハウスがいっぱいあって。
わたし達もその一つに住んでたのね。いろんなちょこちょこちょこちょこしたアルバイトしながら。

私たちが住んでたヒッピーハウスの隣にね、アメリカインディアンの人がいて。
どこだったかな、アラスカの近くの部族の出身の人がいて。 
その人も子供がいて、ヨウと同じくらいの年だったのね。
彼女は隣の借りてる家で保育園やってたの。
その保育園にうちの子達も行って。すごく仲良くお友達になって。

その人たちがビクトリアに引っ越したの。 
大家族でさ、兄弟その家族みんな一緒に住むためにビクトリアに引っ越したのね。
わたしたちも一度その人たちを訪れていたら、メリーっていうその人がね、
インディアンのね、イベントがあるから…そのちっちゃな島で…バンクーバーとバンクーバー島の間にある先住民の島があるわけ。
そこでイベントがあるから一緒に行かないって誘ってくれたのよ。

普通はインディアンしか行けないけど、彼女が「あなたはインディアンに似ているしね、私たちと一緒に行けば大丈夫よ」って言ってね。(笑)

それこそアニムズムで、みんな動物になって踊るわけよ。 で、すごい感動して。
その島から帰って来たらもう真夜中近くてビクトリアまでドライブするの大変だからね、知り合いの人の所に泊まろうっていうことで。
みんなトラックの後ろの荷台に15人くらい乗っけて。
彼女の家族とか友だちとかわたしの家族とかさ。で、ドライブして。

10.18.2012

カナダのコミューン 2



*ヒッピーの家にみんなで泊めてもらう

風砂子:

ボートでその島には行って、でボートで帰って来て。停めてあったトラックに乗って
それでそこ(の家)に行ったわけね。泊めてもらおうってことで。
そこで、みんな床の上に泊まってさ、そういうの普通だったのよその頃は。
ね、ヒッピー達がみんなそうやって。

泊めてくれた人はモルモン教の人なんだけど、自分の社会を抜け出してね。
大工さんで、アメリカから来た徴兵拒否者とか戦争反対者を雇ってね、大工さんの仕事とか与えてくれてる人だったの。

そのときはね、わたしと父と同じくらいの世代で自分の半分くらいの歳の女の人と住んでたんだけど、大勢の人をすぐ床にいろんなものを持ち出して寝る場所を作ってくれて。

その人が今建てている家を見ていかないかって。すぐここから近くでね。
自分で土地を買って木を切ってその木で建ててる家を見に行かないかってね。
「あ、じゃあ」ってみんなで見せてもらって。それでそこへ行ったわけよ。
で、家を見せてもらって。
わたしも、こんな自然の中で森の精達の集いの場みたいだなって思ってたのね。
「それじゃあどうもありがとう」って帰ろうとしてたら、そのすぐ近くにすっごいちっちゃなキャビンがあったの。

そこからヒゲをはやした若いヒッピーが一人出て来て…若いヒッピーなんだけど…
でわたしにね「Are you Japanese?」(日本人ですか?)って聞いたのよ。
わたしが「Yes」って言ったらさ、彼がね、
「I know one Japanese man very well.」(僕は日本人の男を一人とてもよく知っているよ)って言うの。
「What’s his name?」(彼の名前は?)って言ったらね、「Hashi」って言ったのよ。

Hashiってわたしの妹の旦那さんなの。

10.17.2012

カナダのコミューン 3




*Minoとの出会い

風砂子:

”え~Hashi ?? でもまさか同じ名前の同名異人かもしれない”とも思ったけど
その頃、こんなヒッピーに名前を知られている日本人なんて数える程じゃない。
ね、日本人で外国を旅行しているヒッピーなんかさ。
だから“えぇ!”とか言ってさ。

えっと思ったんだけど、でも違う人かもしれないと思ってね。
「What’s your name?」(あなたの名前は?)って聞いたら「Mino」って言ったのよ。
(笑)

それで、なんでわたしがミノの名前を知っていたかっていうと、イサムもハシも旅に出たでしょ? ね、その後わたしと妹が一緒に住んでたの、鎌倉の家で。
そして、ハシからミイコちゃん、ミイコちゃんっていうんだけど、ミイコちゃんに手紙がよく来て、その名前がいつも書いてあったの。
こういうアメリカ人のヒッピーに出会って、今旅をしててね、そういう旅の話が来てて
”いつもミノに僕はすごく感謝してる”って。”ミノと一緒じゃなきゃ僕はこんな旅は出来なかった”って。
だからミノっていう名前がわたしの脳に刻まれてたわけ。

ほんとにあれはね、うわーっという出会いだった。

ーでもそれは偶然じゃないよねー

それがいま40年続いてるんだから。
ほんとに信じられない。

ー運命っていうかね。出会うべくして出会ったー

今にして思えばね。
ーでもそのときも驚いたでしょう?ー

もちろんよ。みんな驚いてさぁ。

10.16.2012

カナダのコミューン 4




*新しいコミューン

風砂子:

わたし達、マクバシに帰ったらミノから手紙が来てて、”もうこのコズミックな出会いに驚いています。今自分たちはコミューンを始めるから、ぜひみんなで来ませんか”って。
それでそのコミューンに参加したわけ。

それがね、とさか農園っていうの。なんでかっていうと、ミノ達が自分たちでグループを作って「Cosmic Constriction 」日本語に訳すと「宇宙建設」っていうね。
大工仕事をやるつもりで。

鳥を飼うおおきな養鶏場をね、ゴルフコースに変える仕事だったのよ。だからそこにいっぱいある鳥小屋をコミューンに持って来て、みんなそこに住んでたの。
だけどその鳥小屋っていっても、樫材で作ったすごい鳥小屋なわけよ。
だからとさか農園。

私たちもそれで鳥小屋に住み始めて。
それこそ、そこのout houseなんてさ、トイレね、それなんてもう…そこはね、ほんとに山っていうか丘でね、下の方にずーっと川とか広野が広がっているところで。それを見渡すところにね、ちょっと後ろだけ塀のあるね、穴が掘ってあって。
そこに板の座り台があって。
そこでするわけよ。

だからわたしなんかそこに座ってワァーとか思って。
すごい瞑想の時みたいだったのね。

10.15.2012

カナダのコミューン 5




*日本の母がコミューンを訪ねる

風砂子:

だけどそこに一度わたしの母が訪ねて来たわけ。私たちが住んでいたとき。
わたしの母はもう、あんたの生活なんか見たくないけどねって、だけどわたしの妹がオハイオで息子を生んだのよ、赤ちゃんを。
それを訪ねに来てね。
なんか恐ろしいようだけどね、あんたの生活を見るのは、だけど孫達に会いたいから行きますって来たわけよ。

でもまさかお母ちゃんを鳥小屋へ泊められないなぁと思っていたらさ。
そしたらその土地のオーナーの人が、自分がミュージシャンだからあちこちおおきなトラックで旅をしていてね、そのトラックが空いてるからそこに泊めたらって言って。
そしたら近所に住んでるヒッピーの人が、”わたしもクリーンなシーツがあるわよ”とか持って来てくれたのよ。 
そこに泊まってね。

でもそのとき夏だったから、コミューンのメンバーなんか素っ裸で歩いてる人とかさ。
(笑)

一週間ぐらいいたかな。でもけっこう孫達とも会えて楽しんでね。
わたしがね、グランドキャニオンまで連れて行ってあげたの。
やっぱりお母ちゃんになにか親孝行したいと思って。
ロサンゼルスから飛行機で帰る切符が買ってあったから。
その前にミノのお父さんが来てね、まだその時ミノとわたしはは何の関係もなかったけど、お父さんがわたしのお母さんが来てロスから飛ぶって言ったら、じゃあうちに泊まっていいよって言って。
だからグランドキャニオンに一泊してロサンゼルスに行って、でそこから帰ったのね。

それでお母さんと一緒にね、フェリーに乗ったのよ。バンクーバー島からシアトル行きの船に乗ったのね。
そしたらうちのお母さん真っ先にトイレに飛び込んでね、なかなか出てこないの。
だからわたし心配しちゃってさ、で行ったらやっと出て来てね。
”ああうれしい”とか言って。
やっぱりとさか農園じゃ行けなかったのよ。出来なかったのよ。(笑)

それで母が日本に帰ってから「あんなうれしい旅はありませんでした」って手紙が来たの。
それでわたしぴっくりしちゃってさぁ。何だろうって思ったのね。
うちのお母さんほんとに心配性で心配ばかりしてるのよ。

だから何だろうと思ったらさ。
イサムがね、いつもお母さんが泊まっているトラックを訪ねてて、いろんなお話してね。
そのときにこれをやってたのよ、タバコのようなフリをして。ね、マリファナをやってたわけ。

だからきっとお母さん、そのせいで (笑)

ートリップしてた!ー
(笑)

じゃないかなぁと (笑)
これはわたしの想像なんだけどね。(笑)

10.13.2012

パートナーが代わるとき 1




*パートナーが代わる出来事

風砂子:

ミノはハシ君と別れてヨーロッパに戻って、デンマークである女性に出会って一緒になったわけ。
彼女はもうすでに子供がいて、ミノはほらほんとに子供のテイクケアとか好きだから、犬もそうだけど(笑)
世話好きだから彼女と一緒だったのね。
そのコミューンに彼女を呼んだわけよ。

それがまた面白い事に、彼女はわたし達がカトマンズにいたとき、そこにいたのよ。
そこで妊娠しててね。で、ヨーロッパに帰ったの、出産のために。
わたしは知らなかったけど、なんかそういう話を聞いた事があったのよ。
そういう子がいるっていうの。

で彼女が来たわけ、ファームに。
それでその子とイサムが一緒になっちゃったわけ。

ーえーっ!ー

そんなことがね、母の来る直前にあったわけ。
でもわたしは母の前ではそんな事、イサムもそんな事言わずにまだ仲良さそうに演技してね。
で、母とグランドキャニオンに行って、それで帰ったら、わたしの鳥小屋が盗まれてたわけ。

ーえー!ー

すっごいショックで。
もう怒りでさ、でわたしはある近くの孤島にひとりで家出したわけ。
でもコミューンだからね、子供達の事はそんなに心配しなくていいのよ。
イサム一人だったら絶対そんな置いてなんていけないけどね。

ミノなんかもう最初から子供達にほんとに…ねぇ、ガールフレンドの子供だって
わたしの子供達だって、あらゆる子供達に気を使ってすごい優しい人だからね。
そういう人もいるし、他の女性達とかやっぱりそこはコミューンだからね。
わたしもそんなに心配しないでね、ちょっと一人で孤島に行ったのね。
2日ぐらいだけどね。

そしたら次の日に、海上飛行機の音が聞こえて。わたしはそこへ行くのにはちっちゃなボートで行ったのよ。
そんな飛行機なんて払えないからさ。
そしたらすごい飛行機の音がして、エーッと思って、何だろうと思って。
そこはほんとに小屋が二つくらいしかないね、ちっちゃな孤島というか入り江というか半島…?  
すごいちっちゃな。

何だろうと思ったらさ、「Fusako- Fusako-」と呼ぶ声が聞こえるのよ。
行ってみたらミノとね、ミノの昔からのお友達で、母が出た後わたしをロサンゼルスからコミューンまで送り返してくれた友達がいて、その人とノラがね、その飛行機で来たの。

10.12.2012

パートナーが代わるとき 2




*パートナーが代わる

風砂子:

ミノがね、わたしがいなくなってからね、ケシがね、まだ2つか3つくらいだったんだけどね。
ケシがミノの膝に行って離れなかったって。
わたしとイサムの関係がだめでも、自分たちはコミューンなんだから、
みんな一緒に住めるはずだって言ってさ、でわたしを取りに来たの。(笑) 
迎えに来たの。

わたしはもちろん会った時からね、すごい信頼してたしね、
で一緒にコミューンに住むようになってからもさ、だけどイサムとの関係に頭が奪われていたからね、心配してたからね。
だからあまりそんな興味を払わなかったわけよ。
まあ素晴らしい人だと思っていてもね。

ー若いしねー

若いし。(笑)

ーミノさんいくつだったんですか?ー

ミノそのとき24歳だったの。 

ーはぁ~ー

わたしが35歳で。

で、その後わたしとミノは自然にね、準備されてたディナーのように
オーガニックで美味しくて (笑)
その後の成り行きは。(笑)
とにかくその存在がすごい信頼出来る、そういう感じは最初からしたよね。

それで会ったばっかりにさ、「When is your Birthday?」(誕生日はいつ?)って彼が聞いたの。
わたしが5月3日で彼が5月4日なの。
11年違いだけど。(笑)

10.06.2012

BE HERE NOW




風砂子:

カナダの冬ってさ、ほんとにもう、太陽がね、朝10時頃から4時頃まで?
感じるだけでさ。
だから本当に太陽がほしい、って思ったわけ。

それで私がネパールにいたときに… ラムダスって知ってる? 知らない?
ティモシーラリーって知ってる?
アメリカの60年代にドラックを広めた…
その仲間のババラムダスって人が、彼はハーバードの心理学かな? 
教授だったんだけど、ティモシーラリーと彼らがLSDを実験し始めたわけよ。

それでたぶん、クビになったのかどうか知らないけど、彼がカトマンズ(ネパール)に来て、
インドのね、ヒンドゥー教を研究しようと思って来たときに、私も会ってるわけ。
彼をニーム•カロリ•ババっていうヒンドゥー教のグルに案内した、バガヴァンダスっていう人が…
その人が本当にもう、ヒッピーの一番目立つ、私が最初にカトマンズで見たときに「わーっ」と思ったヒッピーなのよ。
ラムダスも彼にあって「わーっ」と思って、で彼と仲良くなって、一緒にヒンドゥー教のグルに会いにいったわけよ。

ラムダスの友人がラマファンデーションっていうのをニューメキシコに作っていて。 
精神的なコミューン? そういうのを作っていて。
「BE HERE NOW」っていう本があるの。
ラムダスの講義を集めたね。
でその、「BE HERE NOW」っていうのをカナダのコミューンにいるときに、ある友達が買ってきてね。バンクーバーから。
でみんなにまわしたわけ。


夏はね、夜になると、みんな火の周りに集まってさ、音楽やったり、みんなそれぞれのストーリーをやったりね。
そのときに彼がその本をまわしてきて、
それを開いたらさ、そのバガヴァンダスっていうほんとにるんるんのヒッピーが映ってるわけよ。
すごいおっきなのが。
だから私、「えっ私この人知ってる!」って言ってさ。
で、著者を見たらラムダスにもカトマンズで会ってるわけよ。
その本はラマファンデーションっていうコミューンが出版したわけ。

だから私もう、本当にカナダを出てね、イサムもまだいるし、その彼女もいるし同じコミューンに。
やっぱりいたくないからさぁ、そんなところに。
どっかに行きたいと思って。

で、そのラマファンデーションに手紙を書いてみたわけよ。
そのバガヴァンダスっていう人がいるかね。
そしたら彼から「いつでもwelcome」っていう手紙がきたわけよ。

だから、わたしはもう絶対ニューメキシコだったら太陽がいっぱいあるしね、
絶対行きたいと思って、それでミノに
「I’ll go to New Mexico」(私はニューメキシコへ行くわ)って言ったらさぁ、じゃあ僕も一緒に行くっていうのよ。
だけど、彼は徴兵拒否者で、入国できないわけよ。

10.05.2012

ニューメキシコへ




風砂子:

「だってパスポート取れないじゃない。入国許可できないじゃない。」って言ったらさ。
「誰かのパスポート借りればいい。」って言ってね。
そしたらまた貸してくれる人がいて。(笑)

ー貸してくれるひと、いるんですねぇー

それで子供達に「今日ねぇ、ミノの名前変えたの。」って言ってさぁ。(笑)

国境は一応バスで越えて、あとは全部ヒッチハイク。子供連れて。
そこでも子供はほんとにすごいなぁって。
あたしなんかいくらそれまであっちこっちうろうろしていても、露端にさぁ、ちょっとした果樹園とかね…
たとえば、パークとかそういうところでキャンプしたことはあっても、
子供連れでそういうことやったことなかったわけよ、それまでは。
だからすごい心配だったんだけど。
でも子供はそんなこと全然関係なくってさぁ。

すぐ馴染んで。
それもやっぱり子供から学ぶべきだと思うのよ。

10.04.2012

ラマファンデーションについて



*ラマファンデーションについて

ーラマファンデーションっていうのは、すごく後々有名になった場所でしょ?ー

風砂子:
今も続いてるの。

ー今も続いてるの? BE HERE NOWもすごく有名になった本だし。ー

風砂子:
うん。 あの頃ね、わたし達がいた頃はあの周り、本当にいっぱいいろんなちっちゃなコミューンとか、
ヒッピーがいっぱいあの辺りにいてね。
ヒッピーもいたし、アメリカインディアンのタオスプエブロインディアンとかさ、あとメキシコ人がいっぱいいて。
それとあの近くにはね、ヒッピーの前の頃にはね、アメリカのアーティスト、ジョージアオキーフとかね。
ああいう人たちもあの辺に住んでたの。
そういうね、すごくinteresting(おもしろい)な場所なのよ。

で、60年代にはヒッピーがバァッと入ってきて、いろんなコミューンができて。
でもその中で今でも存続してるのなんて…まぁいまでもそこに住んでる昔の友達はずいぶんいるけど、
今も存続してるコミューンなんてそんなに無いと思う。
ラマはずっと存続してる。

*ラマファンデーションが今でも続いている理由

彼らはやっぱりニューヨークを抜けて、自然の中で暮らしたいっていって言って。
それでニューメキシコに土地を買って、そこに引っ越していったとき、
その頃ヒッピーの間ではドラッグなんて日常のことだったからね。

でも彼女達は一応その、サンタフェの近くにいる、著名な人とかね、そういう人にちょっと相談したらしいのね。
そうしたら、その中の一人がドラッグの使用はやめた方がいいって言ったんだって。
その他にもいくつかのアドバイスでね。

それを実行したわけよ。
だからある意味では、それで今も続いているかなっていう。
まぁもちろんみんなそれぞれのキャビンとかではやってたけど、一応公式には禁止したわけよ。
それもあるかもしれない。
いまでもね、いろんなプログラムをやってるしね。

ー当時もやっぱりラムダスとかそういう人達が?ー

そう、ラムダスもしょっちゅう来てたし、アレンギンズバーグとかね。
もういろんな人が来て。
その頃はまださ、そういうグル達も、アメリカでそういう話しが出来るってのはすごい良かったから、
今みたいにお金を取ったりね、そういう事しないでさ。
日本の禅の老師とかね、ヒンドゥー教の人とか。
もういろんな人が来て、いろんな講義をしたり。すごかったのよ。

私はもともと無宗教、無政府主義者で無宗教だけど、
やっぱりそのラマの目的っていうのは、一つ一つの宗教を学ぶだけじゃなくて、その根底にある人間の宗教観とか、
その根底にある価値観が同じだ、共通してるんだっていう事を学ぼうっていう目的だったのよ。
だから普通の宗教的な団体とは全然違ってね。

そういう意味ではわたしもなるほどなぁと思ってね。
それでなかったら私も普通、宗教とかにはあまり関心持たないんだけど。

10.03.2012

ラマファンデーション



ーラマにはどれくらい?ー

風砂子:
3年いた。

ーラマファンデーションにいたことが、次のステップの何かになったって感じはあるんですか?ー

風砂子:
あるよ。もちろん。

ーそれはどういう?ー

風砂子:
やっぱりある意味ではヒッピー文化…?対抗文化?その一面をすごく見たしね。宗教観とかさ。
あそこに行かなかったらそういうのも見なかったと思うし。

あと、アーシャっていう人(ラマで一緒だった)その娘達がわたしの娘達と同じ年で。
で、彼女もこっちに来るたびに訪ねてくるし、そういう繋がりとかね。

やっぱりね、カナダのコミューンと違って、ラマはすごいオーガナイズされてるわけよ。
毎週一回、グループが集まっていろいろ話し合ったりね。
そういうことはカナダではなかったわけ。
みんなそれぞれ勝手バラバラにやってっていう感じでね。 まぁ仕事が入れば一緒に仕事をするっていう。

ーもっと組織的な感じ?ー

組織的なね。

ーバークレーに来て、それがベースになって新しいコミュニティを作ろうと?ー

わたしね、ラマを出てね、車でバークレーに来たのよ。
その時は本当にわたしね、”あぁ これからは自分の周りにコミューンを作ろう”ってほんとうに感じたわけ。

10.02.2012

バークレーを選んだ理由



風砂子:

いろんなことで、バークレーとかサンフランシスコといろんな人がラマにも来てて。
その時に、インドの声楽のすごく素晴らしい先生がバークレーにいるって聞いたのよ。

それでわたし、それまでにもいろんなスフィ(スフィズム)とかね、
いろんな宗教のチャンティング?そういうのとかもいろいろ聞いて。
わたしもインドにいたけど、インドのラーダって言うんだけどね、
ラーダ音楽のコンサートになかなか行く暇もお金もないから、2、3回しか聴いてないんだけど、すごく感動したのね。
その先生の話しを聞いてね、インドの音楽習いたいなって思ったの。

彼はわたしのリストの中でもすごく特殊な人だった。

インドの声楽っていうのはね、その人がね、「呼吸は神だ」って言うの。
ね、呼吸。
インドの声楽っていうのはね、発声によってね、いろんなノートによって、この宇宙に共感する、共鳴するっていう哲学なのよ。
彼は本当に素晴らしい先生だった。 わたしにはとっても大事な。

こういうのもやっぱりねぇ繋がっているのよね。
インドに行く前にはね、全然インドの情報なんかなくてさ。
今みたいにどこでも情報が得られるっていうんじゃなくなんにもないから、インドのことなんか何も知らなくてね。

堀田善衛って知ってる?
彼はライターなんだけど。
彼はね、すっごく早くインドに行っているんだよね。
で、彼もね、わたしはすごく尊敬している作家なんだけど、その人のね
「インドで考えたこと」っていう本があって。
その一冊のこんなちっちゃな文庫本だけインドに行く前に読んで。
その中で彼が「インドの音楽には、始めも無ければ終わりも無い」ってね。
その1行がわたしの中にインプットされて。
それと「呼吸は神だ」
うふふ

ー面白いね。なんか無意識のうちに自分の人生の中で通って行くものが、先先でインプットされているもんなんだねー

そうなのよ。不思議よね〜

まぁそれが続くかどうかわかんないけどね。 ある時が経てばさっと消えちゃうものもいっぱいあるしさ。

ーでもバークレーという次の拠点になる場所を選ぶきっかけにはなったんだよねー

きっかけになったの。
わたしはミノに「わたしは絶対あそこに行ってね。グルジプランナース、パンディットプランナースに学びたい」って言ってさ。


スーフィズム
堀田善衛