風砂子:
わたしのお父さんはほんとにアナーキストで、東京で学校へ行っていたんだけど。
エスペラントって知ってる? 国際語。その頃…第一次大戦後かな?
世界中で、特にヨーロッパでね、世界平和のためにはみんなが一つの言語を話すのが大事だって。
そのエスペラントっていうのが生まれたのね。
わたしの父はそれをそれを一生懸命勉強して。
ザメンホフっていう人がそれを創造してね。
で、その人の写真の額がね、うちのお座敷のところにこうあって。
それを見ながらわたしは育ったの。
第二次大戦があったときにも、父はもちろん戦争に反対で。
そういう戦争のさなかにね、エスペラントのビラをはってたっていうね。
普段はその頃は警戒警報があって、で、空襲警報があって。でもその夜は警戒警報がなくて。
わたしたちはもうみんな寝てて。突然ばーっと光が…で目が覚めて。
道がもう埋まってて、まるで蟻のように逃げる人で埋まってて。
警戒警報が無かったから誰も準備していなかったわけよ。
わたしたちが防空壕に入ろうと思ったら、お寺にばーんと焼夷弾が落ちて行けなかったし。
わたしとお姉ちゃんが手をつないでお母さんの後をついていったんだけど、途中で迷子になっちゃって。
子供時代のそういう体験っていうのはもう、種だよね。あらゆる人生のね。そういう種はわたしも撒かれちゃったし。
でも父の影響もすごかったよね、わたしにとっては。
絶対戦争なんかいけない、っていうね。